絵画教室

 僕は、今、模索段階にある。自分が本当にしたいことは何か。何をしたら、熱中できて、無心になれるのだろうか。僕は、今、頭と胸が重い。体に異様な不快感がある。それさえも忘れてしまえるようなことは何なのだろうか。やりたいことが見つからないということほど苦しいことはない。なぜそんなに苦しいのか。それは、暗闇で握力の無くなった人間の苦しみだ。感覚器官が内側に閉じ込められている。何もつかめない。握力のない手にひっかかるのは、自分の体の痛みと、不快感だけである。
 しかし、ひとつだけできることがある。それはあがくことだ。ここに一つの感覚器官を失った動物が横たわっているとする。そいつには目も鼻も口も耳も生殖器もない。肉の塊である。そいつにできるのは無様にあがくことだけだ。平らな地面の上で、意味も無くあがく。すると、平らな地面にはくぼみができ、やがてそのくぼみは、その動物の体にしっくりとしたものになるだろう。結局はあがくことしかできないし、あがくことに意味があるのだ。
 僕は、どうやってあがくのだろうか。どうやってあがくのか、と悩むのはおかしい。それは既にあがいているのだ。僕は、散歩をしてみたり、読書をしてみたり、女の子と話してみたりする。そして、自分に問う。本当にこれが自分にしっくりくることなのだろうか、と。しかし、そうやって自分に問うている時点でもうそれはしっくりしていない、ということなのだ。しっくりすることというのは、知らず知らずのうちに、無意識にしっくりしているものであるはずだ。それがしっくりする、ということの意味だ。
 そうやって、最近、いろいろ手を出し始めたことのなかに、絵画教室がある。ホームページで探して行ってみたのだ。僕は、今まで、絵画教室などというものに、反感を持っていた。なぜなら、創作活動というものは一人で行うものであり、人にほめてもらうのは、格好悪いことだからだ。それは卑しいことだとさえ思っていた。互いに描いた絵を見せ合って、展覧会に出展して、いいですねぇ、とほめあう。そんなことはくそくらえだ。それは閉じた世界であるし、心が腐っていく悪い習慣だ。
 しかし、そうやって人を遠ざけていると、どんどん煮詰まってくる。絵画教室というものも、利用のしかた次第でいい表現の場になるのではないか、と思い始めてきた。何よりいいことは、ひとりよがりにならない、ということだ。ひとりよがりになる、というのも重要だし、それがなくなると、面白みというものが全くなくなるのだが。ひとりよがりにならない、ということと、ひとりよがりになる、ということの間をさぐっていく、ここには面白みがある。いまのところ、僕に考えられるのはこんなことだけだ。