新しい時代は本当にやってくるのか

先ほど、即席焼きそばを食べ終え、今、コーヒーを飲みながら、youtubeでglen gouldのゴールドベルクをかけながらこれを書いている。耳には、昨日購入した、sonyの白いヘッドホンから良質なbachが流れ、私のこころは、17世紀ヨーロッパ、バッハ、ニュートンライプニッツが闊歩していた、あの緑の茂るケンブリッジの庭、夕日にオルガンの響く石畳の路地を浮遊している。近代は、デカルトからはじまった。バッハ、ニュートンライプニッツも近代を生きた。

デカルト方法序説で説いた方法とは以下である。

1.注意深く即断と偏見を避けること、そして何らの疑いを差しはさむ余地のないほど明瞭かつ判明に私の精神に現れるもの以外は、決して自分の判断に包含せしめないこと、これである

2.私が検討しようとするもろもろの難問のおのおのをできるだけ、またそれらをよりよく解決するために必要なだけ多数の小部分に分割することである

3.最も単純で、最も認識しやすいものから初めて、少しずつ、いわば段階を追うて複雑なものの認識に到り、また自然的には相互に前後のない事物の間に秩序を仮定しながら、私の思想を秩序立って導いて行くことである

4.そして最後に全般にわたって、自分は何一つ落とさなかったと確信するほど完全な列挙と広汎な再検討をすることである

このような当たり前のことが大発見であるくらい、中世というのは宗教と権威に支配された時代だったのだろう。では、現代とはどのような時代なのだろうか。それには、近代がどのような時代であったかを知り、その近代と現代の区切りを見つけなければならない。ものごとを理解するとは、そのものを一度、対象化するということであるから、時代aを生きる人は時代aを理解し得ない。対象化するために必要な距離が不足しているのである。ある形で理解するということがあったとしても、より俯瞰的な場所からは全く別様に見えることがある。このような不足した距離の中で、語ることは、訂正される可能性を持つ。可謬主義が科学を推進したのであり、私は可謬主義者である。今から言うことは、仮説である。
おそらく、近代と現代の区切りは、構造主義的な考え方である。
今、世間では、新しい時代がやってきたと騒がれている。インターネットの隆盛、マスメディアの衰退、グローバリズム市場原理主義、民主主義の崩壊。それらは危機を伴っている。その危機をどう乗り越えるか。今までと同じ方法で乗り越えるか。おそらく、構造主義を包含した、構造主義的でない方法論で乗り越える必要があるように思う。