意味不明な意味のあるものについて

駅のホームで待っていると、線路わきのコンクリートに、白いチョークで不思議な模様が書かれているのを発見した。四角や丸や直線が複雑に絡み合った模様だ。僕は、それは誰かが真面目に描いたものだと感じた。しかも、ある種の高度な知性がそれを描いたと感じた。なぜそう感じたか。話はすこし複雑になるが、書いてみよう。暴走族やチーマーのことは、よく知らないが、彼らの描く絵は、メッセージだ。そのメッセージの詳しい内容はわからないが、メッセージの単純さを理解することはできる。つまり、メタメッセージの複雑度を理解することができる。人間にはメッセージそのものの内容はわからなくとも、メッセージの置かれている文脈、すなわち、メタメッセージを理解する能力がある。それは、メッセージを発する場を私達が共有していることによるものだと思う。その共有の度合いにより、メタメッセージの理解の度合いは異なる。実際のところ、私達の身の回りのほとんどのものは、等質のメタメッセージを持ち、同程度の複雑度を持っているのではないか。これは、近年の傾向でもあると考える。メッセージが発せられる場から多様性が失われていると感じる。考えてみると、多様性を大事にしようというメッセージのメタメッセージすら、そのメッセージの有効性を相殺するほど、陳腐なものになっているように思う。なので線路わきに不思議な模様を見た時、異質な場から発せられたメッセージを直感し、僕は、うれしくなった。